宗教的信仰とそれらの付随する道徳的価値観は通常、組織機構、決まった手順、そしてそれらの特定の象徴での表現の中で調和させられます。 西洋社会で、キリスト教制度の形態はよく確立されているため、世俗化した平信徒の人々でさえ、宗教はキリスト教に類似した構造と象徴を持たなければならないとしばしば安易に考えます。 調停したり忠告したりする能力を持った住み込みの聖職者によって奉仕される、分離した礼拝の建物、安定した集会のモデルはすべて、他の宗教にそれらの類似物が期待される項目です。 しかし、ざっと見直してみるだけでも、宗教がこのモデルのように見える必要はないことが明らかになるはずです。 世界の主要な宗教は、さまざまな種類の多様な規約を、一方では、聖職尊重主義と、生贄の習慣、 信仰に対する(香、舞踏、彫像のような)補助器具をふんだんに使う秘跡重視主義から、もう一方では、厳しい禁欲主義と言葉での表現、祈祷への奇妙な依存までを現しています。 両極端はひとつの主要な伝統内、ヒンズー教とキリスト教の中で遭遇するかもしれませんが、イスラム教は、その正統的表現はより一様に禁欲的です。そのエクスタシーの現れは周辺部で起きています。
宗教的礼拝は、さまざまな宗教の中では、形態や頻度において大きく異なります。 それは異なる含意を持ち、仏教のような非有神論の体系では特有の形態を取ります。 超越的な神はいないので、祈願に意味はなく、崇拝の場はなく、依存、質素、従順の表現の必要性がなく、賛美を発する目的もありません。それらすべての形態はキリスト教の礼拝の一部です。 しかし現代のキリスト教の礼拝は、それ自体が進化の長い過程の産物です。 ユダヤ-キリスト教の伝統は、何世紀もかけて根本的に変化しました。 旧約聖書にある執念深い、神への動物の生贄の要求は、例えば19世紀の主流プロテスタントの信仰上の実践からは、遥か遠くへと取り除かれています。 詠唱、韻律の詩篇を歌うことが、一般向けの讃美歌に代わったことは、ふた世紀の経過の中でキリスト教の礼拝に全く異なる外観をもたらしました。 今日、擬人化された神の概念はキリスト教では衰退し、現代の神学の観点から見ると、現代のキリスト教の礼拝は、擬人化された彫像が溢れていて、明らかに時代錯誤的です。 古い伝統(そこでは古器物の緑青は容易に神聖さの霊気に間違えられます)という重荷が下ろされて、いくつかの現代のデノミネーションは、過去の擬人観の痕跡を、完全に放棄したのではないとしても、減少させたのはあまり驚くべきことでもありません。 しかし、そのような進化の趨勢(すうせい)を別にしたとしても、礼拝が暗示するものに対するいかなるステレオタイプ化も、今日の世界における宗教の多様性に背かれるという要点を確立する多様性が、キリスト教のデノミネーションには多数存在します。 例えば、ローマ教会は、信仰の礼拝において聴覚的、視覚的、嗅覚的な感覚を巧みに使用することを発達させました。 カトリック教会の礼拝は、他の宗教で使用されている舞踊や薬物の使用を捨て去ったとはいえ、儀式、秘跡そして祭服、非常に豊富な記号体系、カレンダーに乗っている豊富な式典、教会の階層制度、個人の通過儀礼を入念につくり上げてきました。 ローマ・カトリック主義とは最も対照的なのがクエーカー教徒で、あらゆる聖職者の概念、あらゆる儀式の制定(いくつかのプロテスタントのデノミネーションでは普通の、秘跡ではない記念的形態の儀式の制定でさえ)、彫像や法衣の使用を拒絶します。 平信徒の執行の適切さ、有能さの強調と、建物、場所、季節、儀式のいずれにせよ聖礼の拒絶、お守り、ロザリオのような補助器具の拒絶は、多かれ少なかれ、プロテスタントの特徴のひとつです。 福音主義者は聖職者という考えを拒絶し、クエーカー教徒、ブレスレン、キリスト・アデルフィアン派、クリスチャン・サイエンス信者は、有給の聖職者なしで機能します。 一方で、大部分のプロテスタントのデノミネーションは、本質的な力を持つ行為としてではなく、聖書に従って記念の行為として頻繁に行う、パン割きの儀式を維持しています。 このように、いくつかの事例では異なった行動が似たような目的を持つとしても、その他の事例では、パン割きの儀式のように、見かけ上は似た行為が、デノミネーションの教えに従って特有の意味を獲得します。 クリスチャン・サイエンスのように、神が抽象的原理と見なされる場合には、礼拝行為は、信者に神の心と調和的関係を持たせる、馴染みのある宗教的目的を持っていながらも、神を擬人化する見方を保持しているデノミネーションの祈願の実践とはかなり異なる外観を呈します。
新宗教(すべての宗教は、どこかの時点で新しかったのですが)は、より古い確立した信仰の伝統的な実践および制度のいくつかを無視する、あるいは放棄する傾向があります。 もし、 それらが普通の人々の生活様式の根本的な変化を経過して、 家族、 共同体、 教育、 経済的秩序のような基本的な制度の仮定がすべて変化している、 加速された社会的、 技術的発展の時代に起これば、 それらはすべてよりそうする傾向があります。
新宗教(すべての宗教は、どこかの時点で新しかったのですが)は、より古い確立した信仰の伝統的な実践および制度のいくつかを無視する、あるいは放棄する傾向があります。 もし、それらが普通の人々の生活様式の根本的な変化を経過して、家族、共同体、教育、経済的秩序のような基本的な制度の仮定がすべて変化している、加速された社会的、技術的発展の時代に起これば、それらはすべてよりそうする傾向があります。 より動的な社会においては、増大する非個人的な社会的関係、新しいコミュニケーション媒体の影響、あらゆる種類の情報と知識のより広範な拡散とともに、宗教的表現の増大した多様性は全く予期されるべきことです。 西洋社会における新宗教が、2、3、4あるいは15世紀前、あるいはもっと前に始まった教会構造が、本来的なものだと見出すことはまずないでしょう。 ひとつ例を挙げると、現代の住民の日中の社会的、地理的機動性の程度が強まっているとするならば、新宗教が自身を、安定した静的な共同体として地方教会組織的に組織化すると考えるのは適切ではないでしょう。 他のコミュニケーション技術は説教壇と印刷機に取って代わり、他の活動領域と同じようにこの活動領域においても、もし新宗教がそれらが出現した時代の高められた施設設備を利用しないとしたら驚きでしょう。 それらが、宗教の伝統的ステレオタイプとは異なったやり方で物事を行ったり、その合法化のために西洋社会の外を見たり、精神的啓発のための新しいテクニックを使ったりすることは、それらの人間の宗教性の現れとしての資格を奪うことにはなりません。